「天井のない監獄」と呼ばれるガザ📍ポイント解説ガザ地区は、「天井のない監獄」(Open Air Prison)と表現されることがあります。 約40km×10km,東京23区の約6割ほどの土地に、イスラエルの封鎖下で移動の自由を制限され、外に出たくても出られない状態で約220万人の人々が暮らしているためです。 ガザ地区の人々が置かれた過酷で不当な状況を表す言葉ですが、その実態は「監獄」よりもひどい「強制収容所」(Concentration Camp)であるといえます。✅ステップアップ解説イギリスのトニー・ブレア元首相の義妹で、ガザの封鎖解除を求めてきた平和活動家のローレン・ブース氏は、ガザは「強制収容所」である、と批判しています。 通常、「監獄」に閉じ込められるのは犯罪を犯した囚人であり、食事も医療にもアクセスすることができ、外部からの訪問が認められ、刑期があるからです。一方、ガザ地区では、犯罪を犯したかどうかではなく、パレスチナ人であるという理由で、子どもも大人も自由を奪われ、十分な食糧や清潔な水、燃料にアクセスできず、電気も燃料も不足しています。 「強制収容所」とは、政治的信条や属性に基づき敵と見なされた集団を抑圧するため、国家や支配者が強制的に収容・拘禁する場所です。 ガザ地区の実態はこちらに該当するといえます。10.7以前のガザ地区の状況については「ガザ地区について」も併せてお読みください。ローレン・ブース氏のコメントは、動画で見ることができます。%3Ciframe%20width%3D%221280%22%20height%3D%22720%22%20src%3D%22https%3A%2F%2Fwww.youtube.com%2Fembed%2F9IEt1acSmNE%22%20frameborder%3D%220%22%20allow%3D%22accelerometer%3B%20autoplay%3B%20encrypted-media%3B%20gyroscope%3B%20picture-in-picture%22%20allowfullscreen%3E%3C%2Fiframe%3E主な参考文献:高橋和夫『なぜガザは戦場になるのか - イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』 (ワニブックス、2024年、P.57-58)「パレスチナ”自治区”」📍ポイント解説メディア等で、よく「パレスチナ自治区」としてヨルダン川西岸地区とガザ地区全体が示されていることがありますが、これは現実を正しく反映していません。実は、ヨルダン川西岸地区で、パレスチナ自治政府が支配しているのは限られたエリア(西岸地区の18%、歴史的パレスチナ全土の 4%以下)だけです。西岸地区の残り82%は、治安もしくは治安と行政をイスラエル軍が管理しています。ガザ地区は、イスラエル入植地は2005年に撤退しましたが、その後もイスラエル軍によって軍事封鎖されています。両地区は名ばかりの「自治区」で、実態はイスラエルが占領しているのです。✅ステップアップ解説パレスチナ問題について学んでいると、下のようなパレスチナの変遷を表した地図を見かけることがあるのではないでしょうか。パレスチナの地政学的変遷(出典:Weblog de ilustração de Luis Silvaより)一番左は、イスラエル建国前の1946年の地図です。白い部分=ユダヤ人の所有していた土地(Jewish land)は、歴史的パレスチナのほんの一部(6%)でした。なお、パレスチナには、ユダヤ教徒が途絶えることなくキリスト教徒やイスラム教徒と共存してきた歴史があります。この統計における「ユダヤ人」の中には、シオニストではない、元々パレスチナに住んでいたユダヤ教徒も含まれています。彼らをひとくくりに「ユダヤ人」と定義した統計データの存在自体が、シオニズムを政策に取り入れていた、当時のイギリスのパレスチナ統治の暴力性を示していることにも注意が必要です。左から二番目が、1947年の国連総会で決議されたパレスチナ分割案です。当時、ユダヤ人人口は65万人、パレスチナ人人口は100万人以上だったにもかかわらず、パレスチナの55%をユダヤ人の土地として割り当てる、非常に不平等で不正な分割案でした。(欧米諸国が中心であった当時の国連ですら、総会決議前に設けられたアドホック委員会で「分割案は国連憲章違反であり、国際法にも違反している可能性がある」と指摘されていました。しかし、ソ連とアメリカの多数派工作により総会で可決されてしまいました。)三番目が、第一中東戦争後〜第三次中東戦争までの地図です。ガザ地区はエジプト、ヨルダン川西岸地区はヨルダンの支配地域となっていましたが、1967年の第三次中東戦争により、両地域ともイスラエルに占領されました。その後、1993年のオスロ合意・1995年のオスロⅡを経て、パレスチナ自治政府はガザ地区とヨルダン川西岸地区の一部の自治を行うようになりました。しかし、一番右の地図が示すように、西岸地区におけるパレスチナ人の土地は分断された飛び地状態になっています。🔍深堀りなぜ、「パレスチナ自治区」ができたはずなのに、西岸地区はバラバラに分断された状態になっているのでしょうか?実は、パレスチナ自治区の拡大が合意された1995年のオスロⅡで、 ヨルダン川西岸地区は3種類の地域に分類されました。行政治安面積(ヨルダン川西岸地区に占める割合)A地区パレスチナ自治政府パレスチナ自治政府18%B地区パレスチナ自治政府イスラエル軍22%C地区イスラエル軍イスラエル軍60%つまり、西岸地区の大半は依然としてイスラエルが支配するという内容だったのです。A地区は歴史的パレスチナ全体のうち、たった4%に過ぎません。さらに、西岸地区には「検問所」、「入植地」、「分離壁」という、パレスチナ人住民が普通の日常生活を送ることすら妨げる暴力が存在しますが、これについて詳細は後日「ヨルダン川西岸地区について(※準備中)」というページで解説します。ガザ地区についても、「ガザ地区について」のページで説明しているように、2005年に入植地が撤去された後も、イスラエルに軍事封鎖された占領状態にあります。「パレスチナ自治区」とは名ばかりで、実際はそのほとんどがイスラエルの占領地のままなのです。主な参考文献:岡真理『ガザとは何か~パレスチナを知るための緊急講義』(大和書房、2023年、208p.)高橋和夫『なぜガザは戦場になるのか イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』(ワニブックス、2024年、253p.)高橋真樹『ぼくの村は壁で囲まれた―パレスチナに生きる子どもたち』(現代書館、2017年、200p.)参考リンク(外部サイトが開きます)Dialogue for People(ダイアローグフォーピープル/D4P)【取材レポート】「壁」の中の歌声(後編)-パレスチナ-「パレスチナで今起きていることは、世界の縮図です」 “人権野郎”が見たその現状とは - KOKOCARA 「二国家間解決」「和平プロセス」とは何か?パレスチナ問題の解決のためには「二国家間解決」が必要で、「和平プロセス」が再開されなければならないー。こうした考え方は、多くの場合パレスチナにおける平和を願う思いにもとづくものであるでしょうが、実は多くの問題をはらんでいます。📍ポイント解説1993年にイスラエルとPLOの間で成立した「オスロ合意」は、パレスチナ国家をつくり、パレスチナとイスラエルという二国がお互いに存在を認めあう「二国家間解決」を実現するための第一歩として、国際社会でも、多くのパレスチナ人の間でも期待されました。しかし、蓋をあけてみると、パレスチナ人の悲願である、故郷に帰還するという権利は棚上げされ、暫定的に成立したパレスチナ自治政府にはごく限られた自治権しか存在せず、しかもイスラエルは和平プロセスの間も入植地を拡大し続けました。飛び地だらけでは、独立した主権国家をつくることは不可能です。2000年のキャンプ・デーヴィッド会談の決裂以降、和平プロセスは棚上げ状態となり、現在に至ります。✅ステップアップ解説「二国家間解決」とは、パレスチナ人の国家を樹立し、パレスチナ国家とイスラエルが相互に存在を認めあうことで、パレスチナ問題の解決を図ろう、という考え方です。 この実現を目指すプロセスを「和平プロセス」と呼びます。一見、平和のための前向きな取組みだったように思えますが、この和平プロセスの過程でもパレスチナ人の難民帰還権はほとんど無視され、しかもイスラエルによる「占領」は継続し、「入植」、つまりパレスチナ人から土地や資源、生活手段を奪う動きはむしろ加速しました。 パレスチナ独立国家の成立を不可能にする、このようなイスラエルの占領の継続と入植地の拡大は何の処罰も受けませんでしたが、限界を迎えたパレスチナ人が蜂起(第二次インティファーダ。2000年〜)すると、「和平プロセスを妨げる行為だ」「テロだ」と先進諸国は一方的に非難しました。このように、オスロ合意以降の「二国家間解決」「和平プロセス」は、当事者である多くのパレスチナ人の声を無視したものであり、実質的にイスラエルによる「占領」の永続化と「入植地」上の拡大を正当化するものになっていたという大きな問題がありました。当事者の一方を無視した「和平」「安定」は成功するはずがありません。🔍深堀り1992年、イスラエルで第二次ラビン政権(労働党)が成立すると、ヤセル・アラファト議長が率いるパレスチナ解放機構(PLO:Palestine Liberation Organization)と交渉が始まり、両者は1993年にオスロ合意と呼ばれる合意に達しました。当時のクリントン米大統領が、アラファト議長とラビン首相をホワイトハウスに招き調印式を行った際の写真は非常に有名です。1993年のオスロ合意の主な内容は、以下の3点にまとめられます。①イスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)の相互承認 ②イスラエル占領下のガザ地区とヨルダン川西岸地区の一部での、パレスチナ人の暫定的な自治の開始 ③最終地位交渉の先送り①については、PLOとイスラエル政府がお互いを交渉相手として認めたという意義はありました。②については、「暫定的な自治」が認められたものの、その地域はガザ地区およびヨルダン川西岸地区のエリコという小さな町のみでした。 1995年には、「パレスチナ自治拡大協定」(オスロⅡ)が締結され、自治区の拡大と、議会の設置や選挙などについての合意が行われました。しかし、自治区の拡大といっても、パレスチナ”自治区”」の項で説明したように、パレスチナ自治政府の完全な支配下にあるのはパレスチナ全土の4%以下にすぎず、現在に至ります。③については、最終的地位交渉、つまり「聖地エルサレムの帰属」、「パレスチナ難民帰還権」、「イスラエル人による入植地」の問題をどうするか、そして将来のパレスチナ国家とイスラエルの国境線の画定という重大な問題については、交渉が先送りにされてしまいました。和平プロセスは結局失敗に終わりました。ここでは、オスロ合意後の経緯と、オスロ合意そのものの問題点という2つの側面を説明します。オスロ合意後の経緯時期できごと1995年11月極右のユダヤ人青年により、ラビン首相暗殺1996年1月イスラエル諜報機関によるパレスチナ人暗殺事件1996年2月〜3月報復としてハマースによる4回の自爆テロ(59人のユダヤ人が死亡)1996年5月第一次ネタニヤフ政権(リクード)が誕生。ネタニヤフ政権はイスラエルの入植活動を拡大させ、和平交渉はほぼ停止状態に。1997年1月ヘブロン合意(ヘブロンからのイスラエル軍の撤退)1999年5月バラク政権(労働党)が誕生。和平交渉再開。2000年7月キャンプ・デーヴィッド会談の決裂キャンプ・デーヴィッド会談で起きたこと:クリントン米大統領の仲介により、バラク首相とアラファト議長の間で首脳会談が開かれたものの、交渉は決裂しました。この決裂について、イスラエルやアメリカ政府は「バラク首相が大幅な譲歩をしたのに、アラファトが妥協をしなかったために中東和平が実現しなかった」という論調でパレスチナ側に責任を押し付けていますが、交渉当事者の証言によると実態は異なることがわかっています。(以下の引用を参照)しかも、クリントン大統領が「交渉が決裂してもアラファトのせいにはしない」という事前の約束に反して彼を非難したため、「和平が進まないのはパレスチナ側のせい」という印象がイスラエル社会に刷り込まれることになりました。これが、その後イスラエルの政治において右派が勢いづく背景のひとつとなりました。以下、「高橋和夫『なぜガザは戦場になるのか イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』(ワニブックス、2024年、P.126-127」より引用しかし、交渉から時間が経ってから公開されるようになった交渉当事者の証言は、そうした印象とは大きく違った実態を描いている。当時バラクは、占領地の95%の返還を提案したと伝えられた。しかし、返還される占領地にエルサレムと周辺地域を含まなかった。また20%を併合と租借によって支配し続け、入植地とそれを結ぶ高速道路はそのままにするという内容であった。しかもパレスチナ側に返還される地域の出入り口はイスラエルが管理するという条件がついていた。つまり現在のガザのような状況の“パレスチナ国家”の勘立が提案されていたわけだ。またエルサレムのイスラム教徒の聖域にも、パレスチナ側に認められるのは管理権だけで、主権は認められなかった。最終的には、パレスチナ人による主権国家は成立せず、イスラエルの保護国のような存在になる、という内容であり、アラファトが呑めるものではなかった。2000年9月リクード党首のシャロンが、1000人の護衛を引き連れて、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地に立ち入り、エルサレムがすべてイスラエルのものであると宣言する挑発行為を行う。同月第二次インティファーダ=パレスチナの民衆蜂起の開始2001年2月シャロンが首相に就任2001年9月イスラエル政府が今後アラファトを交渉相手とみなさないことを決定し、和平プロセスは崩壊2002年3月イスラエル軍がパレスチナ自治区に軍事侵攻。ヨルダン川西岸地区の自治政府があるラマッラなどを再占領し、アラファトを軟禁状態に置く。2002年6月ヨルダン川西岸地区でイスラエルが「分離壁」の建設を一方的に開始2004年11月アラファト死去2005年8月ガザ地区から入植地撤去、イスラエル軍撤退。※しかし、ガザ地区は軍事封鎖され、事実上占領が続いている。2006年1月パレスチナ立法評議会選挙でハマースが第一党になり、内閣を組閣。イスラエルと欧米諸国は、民主的に選ばれたにもかかわらず、ハマース政権をボイコットし自治政府への援助を停止。ファタハが超法規的措置により独自の内閣を樹立。2007年武力衝突の結果、パレスチナ自治政府はファタハが支配するヨルダン川西岸と、ハマースが統治するガザ地区に事実上分裂。オスロ合意そのものの問題点重要な点は、和平プロセスがうまくいかなかったという経緯だけではなく、オスロ合意そのものに問題があった点です。 1. 入植地の拡大と限定された自治区最も深刻な問題は、オスロ合意後も、ヨルダン川西岸地区における入植地の拡大が続いたという点です。こちらはイスラエルの入植者の人数の推移を表したグラフ(注:イスラエルが自国領と主張している東エルサレムを除く)ですが、和平交渉が行われていた1993年〜2000年の間も、入植は規制されるどころか加速しています。%3Ca%20href%3D%22https%3A%2F%2Fwww.statista.com%2Fchart%2F20001%2Fnumber-of-israeli-settlers-living-in-the-west-bank-by-year%2F%22%20title%3D%22Infographic%3A%20The%20Growth%20Of%20Israeli%20Settlements%20%7C%20Statista%22%3E%3Cimg%20src%3D%22https%3A%2F%2Fcdn.statcdn.com%2FInfographic%2Fimages%2Fnormal%2F20001.jpeg%22%20alt%3D%22Infographic%3A%20The%20Growth%20Of%20Israeli%20Settlements%20%7C%20Statista%22%20width%3D%22100%25%22%20height%3D%22auto%22%20style%3D%22width%3A%20100%25%3B%20height%3A%20auto%20!important%3B%20max-width%3A960px%3B-ms-interpolation-mode%3A%20bicubic%3B%22%2F%3E%3C%2Fa%3E%20You%20will%20find%20more%20infographics%20at%20%3Ca%20href%3D%22https%3A%2F%2Fwww.statista.com%2Fchartoftheday%2F%22%3EStatista%3C%2Fa%3E2023年時点で、ヨルダン川西岸地区の入植地は約300箇所。入植者は約70万人(うち22万人はイスラエルが自国領と主張している東エルサレムの入植者)に上ります。 なお、占領地に、占領国が自国民を入植させることは国際法違反です。「パレスチナ"自治区"」の項にあるように、オスロ合意・オスロⅡでパレスチナ自治政府が獲得した支配地域は、歴史的パレスチナのわずか4%にすぎず、しかもイスラエルが建設した道路(パレスチナ人は使用できない)や、違法な入植地の拡大などにより分断されています。「和平交渉をしている」と言いながら、イスラエルは国際法違反の入植を続け、パレスチナ人の社会や生活を破壊し続けました。 2. 非対称な交渉国家主体であるイスラエル政府に対し、元々ゲリラ組織であるPLOは、資金力、軍事力、交渉力などあらゆる点で脆弱でした。チュニスにあったPLO本部には盗聴器が仕掛けられており、アラファトの手の内はイスラエル側に見透かされていました。 3. 「占領」の永続化ガザ地区を研究してきたユダヤ系アメリカ人政治経済学者のサラ・ロイ氏は、イスラエルによる「占領」の終結が、国際法ではなくイスラエルとパレスチナの交渉によって解決されるべき項目になってしまい、イスラエルが国際社会に占領を不問にすることを認めさせることに成功したことを指摘しています。(詳細はサラ・ロイ著「ホロコーストからガザへ」をお読みください。)以上で見てきたように、「二国家間解決」を目指したといわれるオスロ合意とその後の和平プロセスでしたが、実態を紐解くと、イスラエルの占領と入植により、パレスチナが主権国家として独立することを不可能にし、パレスチナ人が故郷に帰る権利を認めず、占領を持続させるアンバランスなものでした。もし、再び「二国家間解決」を目指した和平交渉が行われるとしても、イスラエルによる国際法違反を黙認し、パレスチナ側に抑圧を強制するような枠組みでは決して解決することはないでしょう。主な参考文献・臼杵陽『世界史の中のパレスチナ問題』(講談社、2013年、P.324)』・臼杵 陽、鈴木 啓之 (著, 編)『パレスチナを知るための60章 (エリア・スタディーズ144)』(明石書店、2016年、P.132-142)・高橋和夫『なぜガザは戦場になるのか - イスラエルとパレスチナ 攻防の裏側』 (ワニブックス、2024年、P.53-54、P.110-111、P.119-127)・サラ・ロイ(著) 岡真理, 小田切拓, 早尾貴紀 (編集, 翻訳)『ホロコーストからガザへ: パレスチナの政治経済学』(青土社、2024年、p)以上